ヒトは、より良い暮らしを送るために様々なものを生み出して来ました。人類の歩みこそが、技術進化の歴史と言ってもいいでしょう。
便利で豊かな暮らしができるということは、そこに必ず新しい技術が加わっているということです。釜戸を使ってお米を炊いていた所から、炊飯器が開発された。洗濯板を使って洗濯をしていた所から、洗濯機が開発された。
これらは、画期的な発明であったことでしょう。圧倒的な時短となったわけです。
炊飯器や洗濯機、掃除機や冷蔵庫などが生まれたことにより、私たちの生活は便利で豊かになりました。これらを考えだしたヒトは、とてつもない功績を人類に残しています。
現代社会において、その筆頭はiPhoneを代表とするスマートフォンです。
いまや、「電話」と言いながら通話を手段として使っている場面は、ごく僅かです。何かを検索して調べたり、写真を撮ったり、音楽を聴いたりする。コミュニケーションのツールとして使用する場合でも、「電話」として使うのではなく、多くはメールなどの文字でのやり取りでしょう。さらに、個人と個人のツールだけでなく、世界に発信することさえできるのです。
実際、この記事も僕はiPhoneを使用して書いています。
世間は、様々なものに便利さと使いやすさを求める傾向があります。それは、使う側からすればとても有難いことです。ところが、便利であったり、使いやすいというのは、使い手の思考を削ぐことを意味しています。
説明書を読んだりすることなく、直感的に触れば、使うことができる道具。正しく、iPhoneはこれにあたります。こういったものを開発できる人の思考は、利用者を想定して試行錯誤してできたものでしょう。そういった人たちによって、多くの利用者は思考を妨げれているのです。
過度な親切さや便利さは、ヒトが思考することの妨げとなるのです。便利な世の中だからこそ、意図して不便なことや不親切なものに触れる経験が必要だと思います。
分かりやすい漫画や解説本ではなく、原書を読んでみる。敢えて、説明せずに、調べさせる。
不便や不親切は、悪いことでないのです。
それによって考える機会が生まれることなのです。不親切に接することは、嫌われることかもしれません。しかし、手取り足取り教えることは、思考を奪っている行為です。そこまで考えて、親切や分かりやすい関わりをすることは、構いませんが、親切ありきで接しているだけでは迷惑となりかねます。
アナログな僕とすれば、敢えて不便や不親切な環境に身を置くようにしています。そう言いながらも、今は快適なソファーの上で、ダラダラしながら、iPhoneでこの記事を書いている。
矛盾しているような状況です。
不便だろうが、便利であろうが自分が意図を持って選択をできる環境を作ること。そして、選択したものは、自分が責任持って取り組むことが大切だと思いました。
今日も読んでいただき、ありがとうございました。